第6話 雨に埋もれた探偵
私立探偵が殺された“雨の夜”。
その前後にも、同じような雨の日だけに起きた死があった――。
九重班は、街に点在する「雨の事件」を一枚の年表に並べ始める。
本編
ホワイトボードの前に、色の違うマーカーがいくつも並べられていた。
その中央に、まっすぐ一本、横線が引かれる。そこに沿って、日付と簡単なメモが書き込まれていった。
「……これで、過去五年分です」
真壁が最後の線を書き終え、ペン先を離した。
「大宮市内で“雨の日に”発生した殺人事件。確定分と、未解決を含めたもの」
会議室の空気は重かった。
九重は腕を組んだまま、その年表をじっと眺めている。
そこには、赤い丸で囲まれた「私立探偵殺し」の日付があった。その前後には、小さな印が点のように並んでいる。
「こうして見ると、思ったより多いな」
佐野が低く言った。
「全部が全部、今回の銃密売と関係してるとは限らねぇが……」
「関連の薄いものは薄く線を引いてあります」
真壁が説明を続ける。
「夫婦間のトラブルからの刺殺事件、強盗絡みのコンビニ店員殺し……動機がはっきりしているものはグレーです」
「逆に、動機がはっきりしていない事件は?」
「赤です。私立探偵殺しを含めて、四件」
ホワイトボードには、赤で囲まれた四つの日付が浮かび上がっていた。
どれも雨の日、どれも夜。場所はバラバラだが、いずれも人通りが少ない時間帯と場所を選んでいた。
「……四件全部、凶器は回収されていないのね」
九重が呟く。
「はい。いずれも凶器不明、あるいは“鈍器のようなもので殴られ”のまま止まっています」
「銃声の通報があったものは?」
「一件。ですが、現場に薬莢は残っていませんでした。鑑識の記録では、周辺に擦過痕がある以外は手がかりなし」
「……雨の日に、痕跡を残さず殺している」
九重は赤く囲まれた円の一つを指先でなぞった。
「銃を使ったかどうかが曖昧な事件が、一番危ない」
その頃、資料保管室では未来が段ボール箱と格闘していた。
重い箱を一つずつ棚から降ろし、中身のファイルを机に並べていく。
「……これ、本当に全部見るの?」
応援に駆り出された若い事務職員が、半泣きの声を上げる。
「大丈夫。見るのは私と九重だから」
「え、九重さんも、ですか」
「そう。あの人、こういうのは自分の目で確認しないと気が済まないタイプだから」
未来は苦笑しながらファイルの背表紙をめくった。
“私立探偵 死亡事件”。
それが書かれたファイルを取り出し、そっと開く。
「……やっぱり、雨だ」
現場写真の端に、濡れたアスファルトと、ひしゃげたビニール傘が写っている。
「この人、本当に一人で全部抱え込んでたんだな」
ポケットから出てきたメモは短く、必要最低限の単語だけが並んでいた。
「“銃”、“倉庫”、“雨のルート”。……あと、“次は北だ”」
そこに、保管室のドアが開く音がした。
「進み具合は?」
「本人登場」
未来が顔を上げると、九重が棚の間に立っていた。
「探偵の関係ファイルは?」
「ここ。関連しそうなところには付箋つけておいた」
未来が席を譲るように横にずれると、九重はファイルに目を落とした。
経歴、依頼内容、交友関係。
どのページにも「派手さ」はなかったが、地道な調査の跡だけは確かに残っている。
「……雨の日に動く案件だけ、印がついてる」
「印?」
「ここ」
日付欄の横に、小さな点が青いインクで打たれていた。
「雨の日、って意味かもね。自分の中で整理するための」
未来が別のページをめくる。
「ほら、こっち。“依頼人:匿名。内容:雨の日にだけ動くトラックの行き先調査”」
「依頼人が誰かは、最後まで分からなかったのね」
「みたいだね。報酬額だけやたら高い」
九重は、ふと小さく息を吐いた。
「……この探偵、私たちと同じところまで来ていたのよ」
「同じ?」
「“雨に紛れて動く何か”を追って、途中で殺された」
言葉にすると、その事実が改めて重くのしかかってくる。
午後、会議室に再びメンバーが集められた。
ホワイトボードの年表の前で、宮内が腕を組む。
「――以上が、雨の日の殺人と、被害者である私立探偵の追っていたラインだ」
宮内が概要をまとめ、片桐課長が静かに頷いた。
「銃器密売の本格捜査に切り替えるには、もう一押し欲しいところだな」
「課長。昨日の倉庫街でも、金属製の物体を撮影したと思われる画像データが確認されています」
真壁が口を挟む。
「匿名サーバ経由で、どこかに送信されていたようです」
「“どこか”が分からんうちは、上をうならせる材料にはなりにくい」
片桐は苦い顔をした。
「ですが――」
九重が一歩前に出る。
「殺された探偵が追っていた“雨の日のルート”と、昨夜のトラック、倉庫での積み替え。全部を合わせると、一つの線になります」
「線?」
「“この街を経由して、何かを運び続けている組織がいる”。その“何か”は、銃器の可能性が高い」
片桐はしばし黙り、年表とファイル、そして九重の顔を順に見た。
「……分かった。強行犯係だけで抱え込むな。暴力団対策課にも情報を共有しろ」
「よろしいんですか?」と宮内。
「ここまで揃っているなら、“ただの未解決”では済まないだろう。だが、動くにしても慎重にやれよ。しくじれば、こっちが撃たれる」
その言葉に、室内の空気がわずかに引き締まった。
夕方。外はまた小雨になっていた。
捜査一課のフロアで、真壁がパソコン画面を睨みつけている。
「……どうだ?」
佐野が声をかけると、真壁は肩をすくめた。
「探偵が残していた“次は北だ”ってメモ、位置情報と照らし合わせてみたんですけど……」
「やっぱり、第三工業団地か?」
「それも候補なんですけど、もう一つ、川沿いの古い倉庫群があります。地図にギリギリ残ってるレベルの」
「……どっちも臭いな」
佐野が頭をかく。
「あの探偵、一人で両方見に行こうとしてたのかもな」
「どっちかで足をすくわれた、と」
真壁の喉が、ごくりと鳴る。
そこへ、エレベーターの扉が開き、未来が資料を抱えて現れた。
「お待たせ。例の川沿い倉庫、近隣住民からの聞き込み結果」
「何か出たか?」
「“最近、雨の夜だけトラックが入っていくのを見た”って証言が一件。ナンバーまでは見てないけどね」
三人の視線が交錯する。
「雨の夜だけ、ね」
九重の声が背後からした。
「やっぱり、“雨”がキーワードね」
「聡美」
「今夜の予報は?」
「え?」
未来がスマートフォンを取り出し、天気予報アプリを開く。
「……降水確率、八十パーセント。夜は、また雨」
「決まりね」
九重はコートを手に取った。
「次の雨までに、探偵が見たかったものに追いつく。
今度は、私たちが“先に”動く番よ」
窓の外では、まだ本格的に降り出していない細かな雨粒が、街の輪郭をぼやかし始めていた。
未解決の街。その空の下で、過去と現在の“雨の日”が、少しずつ重なり始めている。