第13話 触れた影
証拠が揃わないなら、揃う場所へ行く。
九重は“逮捕できない”ことを承知で、犯人と接触する。
本編
取調室の前を離れた九重と佐野は、無言のまま廊下を歩いた。
空調の音だけが、やけに大きく聞こえる。
九重の足は迷いなくエレベーターへ向かっていた。
「……どこへ行く」
佐野が追いつき、声を落とす。
「接触する」
九重は前だけを見て言った。
「逮捕じゃない。確認。相手の“反応”を見る」
「証拠が揃ってないのに?」
佐野の眉がわずかに動く。
「揃ってないから行く」
九重は短く息を吐いた。
「銃器だけでも、殺人だけでも、今は届かない。なら――揃う位置に、自分の目を置く」
夕方。市内の外れ、裏通りの駐車場。
雨は降っていないのに、路面は薄く湿っていた。どこかで散水でもしたのか、街灯の光が鈍く滲む。
九重はコートの襟を整え、角の自販機前で立ち止まった。
佐野は少し離れた位置で、視線だけを動かしている。
“追う”のではなく、“見せる”ための配置だった。
「ここで待つ必要あるか?」
佐野が小声で言う。
「ある」
九重は自販機のガラスに映る街を見たまま答える。
「来る。……こういう相手は、こちらが止まると、必ず確かめに来る」
十分もしないうちに、黒いワゴンがゆっくり入ってきた。
運転席の男は、いったん周囲を見回してから降りる。歩き方が丁寧すぎる。
“警戒している”というより、“見られて困るものがある”歩幅だった。
男は九重の前で止まり、距離を測るように笑う。
「……刑事さん?」
声は軽い。だが目は笑っていない。
「県警本部、捜査一課」
九重は名刺を出さず、肩書だけを置いた。
「あなたに、確認したいことがある」
「任意で?」
男はわざとらしく首を傾けた。
「任意」
九重は淡々と言う。
「ただし、あなたが“任意のまま”でいられるかは、これからのあなた次第」
男の口元が、一瞬だけ固くなった。
九重は、その一瞬を逃さない。
「銃器が“何に使われたか”。東雲が“どこまで掴んでいたか”。……あなたは、そのどちらにも関係している」
九重は言い切る。
「違うなら、否定すればいい。否定の仕方で、こっちは判断できる」
「すごいな。刑事さんって、みんなそんなに“勘”で動くの?」
男は笑いを作り直した。
「勘じゃない」
九重は視線を外さない。
「雨の夜の動線、映像の抜け方、時間のズレ。あなたの“生活の癖”まで、もう出ている」
佐野が一歩だけ動いた。
だが九重は手を上げて制す。今日は“締める日”ではない。締めれば相手は逃げる。
九重は、逃げ道ごと記録したい。
「――で、何が聞きたい?」
男の声から、軽さが消える。
「ひとつだけ」
九重は言った。
「東雲探偵が死んだ夜、あなたは“走っていた”か」
男の瞳が揺れた。
たったそれだけで、九重は確信に近いものを得る。
“答え”より、“揺れ”が価値だった。
「……知らないよ」
男は吐き捨てるように言い、踵を返した。
「刑事さん、証拠がないなら、帰れ」
「帰る」
九重はあっさり言った。
「今日は、ね」
男がワゴンに乗り込み、ゆっくり去っていく。
九重はテールランプが角を曲がるまで、微動だにしなかった。
戻りの車内。ワイパーが動いていないのに、フロントガラスには細かい水滴が付いている。
佐野がハンドルを握ったまま、九重を横目に見る。
「……で、何を得た」
佐野が言う。
「“揃う場所”が分かった」
九重は短く答えた。
「相手は、今夜こちらを確かめに来た。なら、こちらも確かめ返せる。次は、殺人のほうの証拠を拾う。銃器は“押さえ”になる。……セットで立件する」
「証拠が片方欠けたら?」
佐野が問い返す。
「欠けさせない」
九重は淡々と言った。
「雨は、まだ終わってない」